雑記

モノクロームのひかりの声

富士フィルムが白黒フィルムの生産を今年10月で中止するという。他メーカーではまだ生産は継続されているから、完全になくなるというわけではないが、いずれその日は避けられないだろう。緑色パッッケージのネオパン、ブローニ版はワンロールで12カット。愛用した二眼レンズのローライコードは機械式で露出計が付いていない。一枚を撮る貴重さが感覚をおのずと鋭敏にさせる。今時は携帯で街をぶらつきながら気の向くままにシャッターを切るのが当たり前だが、フィルム代・現像代・プリント代を合わせれば一枚200円ほどだったか、ここぞというシーンに出会うまで無駄打ちはしなかった。撮ったきり現像しないまましまいこんでいた白黒フィルムを見つけ、先日現像に出そうとしたら、もう白黒フィルムを上手に現像できる職人が少なくなっていてねと、カメラ屋の親爺さんのつぶやき。

島尾伸三の「生活」と「季節風」という写真と雑文を組み合わせた二冊の単行本を長く手元に置いている。引越しのたびに配列が入れ替わる本棚の中で、いつも一番目に付きやすい位置を占めている。「生活」は島尾氏自身の家族、妻であり同じ写真家でもある潮田登久子氏と、娘であり漫画家のしまおまほ氏の二人、そして彼らが過ごす住まいが主な被写体だ。一見すればどこの家族にもよくある家族アルバムのよう。写真には必ず、タイトルと並んで10文字から20文字程度の一文が添えられている。その写真の直接的な説明文ではなく、その写真を撮る場にある気分を連想させるものが多い。

 

例えば二人が昼寝をしている情景を撮った一枚には、「昼寝/何ごともないのに、何かがゆるみ、」とある。主語が曖昧なのはおそらく撮る立場と撮られる立場のどちらかがその場の心象を主体的に形成していると言い切れないからではないだろうか。自身の家族生活というプライベートな一面を収めているのだが、写真家が自立させる一枚の作品となっているのは不思議だ。

保育園ではイベントごとに近くのカメラ屋の若主人が出張しカメラマンを務めてくれている。その場に立ち会えない父兄も、自分たちの子供が園でどんな風に振舞っているのかを窺える貴重な記録だから、少々値が張っても写っているものは大抵買ってしまうのだが、後で見返すと画面の中に自分の子供の姿しか写っていなくて、いったいいつ誰とどこに行った時の写真かが見当つかないことになる。日付が入っていればまだ振り返ることもできるが、その場に流れている空気感まで掴むのは難しい。

デジタルカメラが主流となってからも、幼い頃の子供の成長を白黒フィルムで記録していた時期がある。デジタルカメラと違って、撮った直後に画像を確認することはできないが、現像に出して仕上がってくるまでを待つ時間も楽しみは継続し、店頭で仕上がりを確認する時の、期待度に対して良くも悪くもあっても、そのギャップはかけがえないものとして記憶されることになる。

 

プリントしたうち気に入ってアルバムに残そうというものはせいぜい一割あれば良い方で、選り分けられた残りはぞんざいにまとめられてどこかにしまいこまれてしまうのだけれど、何かの整理のときにぽこっと出てきて、あゝあの頃のねとめくり出して眺めてみると、露出がオーバー気味だったり構図が単調だったりではねられていたものの中に、当時の息遣いを鮮明に伝えてくれるものがあったりするのは新鮮だ。

職業としての写真家であれば、アルバムに残されたプライベートな視線で選ばれた物よりも、選択から外れてしまう意図的でないものの中に、対象に宿る自立した精神を見出すのかもしれない。一枚に息づく光の痕跡は、たどり直すことはできないその後の人生と、もう一つ別のありえたかもしれない道標とを、等価に並べて照射し続けている。