雑記

「永遠」とデザイン

 行きつけの本屋で手にした「空と樹と」という本がある。著者は詩人の長田弘、画が日高理恵子。五十頁に満たない薄さながら余白を生かした体裁がタイトルを引き立てる。箱から中身の本を取り出してみた。細い枝、太い枝、日当たりの最適を目指し四方への枝分かれが太い幹、細い幹、太い枝、細い枝と、画面いっぱいに折り重なりながら目に飛び込むモノトーンの描画は、視線の方向性を明示するものを極力排除しているにもかかわらず、見上げた構図だという思いを抱かせる。

 

 血管像影の白黒写真かとも見紛うのは、いわゆる樹としての全体像がないことに起因している。自然を善とする環境週間的なアットホームさでない、過剰な不穏に戸惑いを覚えるのは、鬱蒼と葉が繁る季節を描いているのでないからということもあるが、自然を人と相対する畏怖すべき存在として眺める視点が含まれているからか。

 

 そして特筆すべきは荒ぶった構成の中に、繊細で瑞々しくざわめく質感を同時に湛えていることだ。印刷されたものなのでやや判別し難いながらも、麻紙に岩絵具で描かれているらしい現物のテクスチャは、細やかで優しいざらつき感を残した印刷紙から窺うことができる

 樹影の表紙に包まれ詩や散文が九つある。並列して九つのモノトーン画が収められている。何枚かの絵は葉をつけたものもあるが、ほとんどが枝が一面を覆っており、背景は青空なのか曇り空なのかまでは分からない。詩は著者の詩集や雑誌に出た文章から、空や木にまつわるものを選んできている。

 発行者は須山稔、デザインは須山悠里。2007年に第一刷が、2017年の春に第三刷が発行されている。2015年には長田氏は他界しているが、この一冊の出版に携わった人々が届けようとした思いの形は発行当初から変わらずここに存在している。

 樹の下で立ち止まり、見上げることで初めて気づく空の広がりとそこに立つ人。樹は空のためにあるのでもなく空は樹のためにあるのでもないけれど、樹があることで空のことを理解しやすくなったり、空に気づくことで樹以外のことが目にし耳にしやすくなったりする人が、そこにいる。

 「空と樹と」の樹の後の「と」に注目しよう。次に来るものは、読み手の僕らに委ねられている。ある人はそこに希望を見るかもしれないし、又ある人は孤独の香りを嗅ぎ取るのかもしれない。

 

 普段身近すぎて見落としてしまいがちなものが、樹に寄り添い空の広がりをつかむことで、否掴みきれなさに圧倒されることで、やっと僕らの心に響くときがある。僕らの愚鈍な不器用さを世界はやや大目に見てくれているらしい。著者の長田氏があとがきで「幸福な書」と呼んだのは、あながち誇大な表現でなく思える。

 建築学生だった頃、静岡県の掛川にある資生堂アートハウスで「空間」を初めて体感した。空間という言葉は、一般的には何かと何かの間に挟まれたり囲われたりした結果生み出されたスペースの広がりを言うが、ここでわざわざ鉤括弧を付けたのは、建築デザイン技法上のモチーフとして対象化する意図からだ。少なくとも僕は建築を学び始めた頃、言葉として「空間」と呼ばれているものが一体全体どんなものかを理解しないでいたことを、資生堂アートハウスを訪れ初めて気づかされることになる。

 

 この建物は化粧品でおなじみの資生堂が行ってきた企業広告の歴史を紹介する小規模な美術館で、設計は谷口吉生氏。S字を描く平面形状は外部空間と内部空間が入れ子状に絡まりあってなおかつ、人の動く経路に沿って断面が徐々に膨らんだりすぼまったりする。氏が自身の設計事務所を立ち上げてから初めて取り組む大規模な公共建築で、ユニークな実験的精神を持って設計されている。

 

 僕らが描く鉛筆の線は、寄せ集めれば黒い面の集積にしかならないが、意図を持ったレイアウトの構成により自在な言葉を話すことができるのだという素朴な驚き。遠くまで広がる永遠を眺める窓は、いつでもこの部屋に準備されてある。

 無限に遠くに見える地平線への近接は凹凸を露わにする。空が高くも低くも見える雲の遠近はデザインの領分。澄ました耳に立ち上がる沈黙のグラデーション、立体化された街。