雑記

「消える」デザイン

 経済協力開発機構OECDが行う学習到達度調査PISAで常にトップクラスを維持するフィンランドの教育の特徴の一つに、落ちこぼれを作らないということがある。いかに資源の少ない国土で競争力を生み出していくかを考え1970年代に教育を無償化し、できる子供を選別して育成するのではなく、脱落する子らのフォローに重点を置いた指導を行っているそうだ。

 日当たりや風通しの良い所にリビングや主寝室を配置し庭やテラスへの地続き感に優先順位を置くと、おのずとキッチンや洗面所は奥まった日当たりの芳しくない場所に追いやられてしまう。間口が狭く奥行きの長いマンションの配置に定石プランができてしまうのも、優先度の高いものから南向きの良い場所を割り当てていく価値観が優勢だからだ。

 そんな中、条件としては決して恵まれていないキッチンや洗面所に魅力的な彼方の山並みを見通せる窓があったとしたらどうだろう。通常こんなものだという期待値を大きく上回る状況は、かけがえなのないキャラクター性をそのスペースに付与する。不利な条件の中だからこそ気付かされる潜んだ可能性の芽は印象的な効果として残る。

 吹き抜けという空間構成がある。上階の床をなくし二層分の天井高さを確保する手法だが、これがなかなか曲者で下手に扱うとただ床に空いた穴でしかない。ひとつながりのシークエンスを構成する一部分として位置付けて初めて活き活きとした気配が立ち昇る。欲しいのは吹き抜けではなくて、吹き抜けがあることで引き立つその場所ならではの特質である。家はお気に入りを寄せ集めて組み上がるジグソーパズルではなく、肉と野菜とスパイスのコンビネーションで仕上げるカレー作りに近しい。

 鎌倉市川喜多映画記念館では、特別展「映画衣装デザイナー 黒澤和子の仕事」が開催されている。父親である黒澤明の最晩年の作品から映画製作に携わり、今や日本の名だたる映画監督から篤い信頼を得ている。それでも決して作品世界よりデザインが前に出て主張することなく時代や場所が持つ空気感を忠実に再現することに賭ける、その仕事ぶりを垣間見れる貴重な機会だ。脚本しかない映画作りの初期段階で描く衣装デザインのスケッチには、登場人物のパーソナリィティがすでに育まれ、作品世界が胎動している。一見着古したかのよう仕立てられた衣装は、役作りに見合うようわざと擦り切れさせたり汚したり傷められたりする。袖を通す役者からも着心地が好評なのは、その場限りの衣装だとしても季節や環境を踏まえた配慮が行き届いているからだ。

 

 見終えた観客がその映画を振り返ったときに、役者がどんな衣装を着ていたか覚えていないというのが、その仕事がうまく行ったかどうかの目安になるという。映画の世界にふさわしい佇まいを演出できたなら、シーンにはその登場人物が思い抱いた焦燥感であったり憎しみであったり愛おしさが刻まれるのであって、徹底的に細部にこだわった末の衣装だからこそ存在は背景に退き、さり気なさが残る。

 頂上に行けば広がる水平線も歩をすすめる山合いからは窺えない、のだとしても無限大に遠く離れた水面はいつだって同じ目の高さだ。僕らは景色の細部に潜む遠近法を逆辿りすることで地続きの永遠を読み取ることができるだろうか。そこにあるはずの儚さ、消えるデザイン。