雑記

「モダン」デザイン

十一月二十三日勤労感謝の祝日、本ブログで話題に出た箱根の小涌園に行ってきた。当初は同僚と連れ立って高尾へ登山の予定だったが、あいにくの天気だという前日の予報で早々と中止としたものの、スケジュールを空けていたのも惜しいなという気持ちも手伝って、近々解体の話がある吉村順三氏設計の箱根のリゾートホテルの見納めに行かないかと切り出した。

 
同僚といっても首都圏でばらばらな住まいであるから、箱根と言っても小旅行な人もあれば中旅行-そんな言い方はあるか知れないが-それなりに時間をかけて銘々が小田原に集合した。箱根登山鉄道に乗り継いで箱根湯本を経由し、最後は小涌谷というバス停に降り立った。ホテルにはそこから十五分ほど上り坂を歩くことになる。道すがら色褪せてはいるものの十分な大きさの地図看板が、ここで行き先を眺めた幾人に対してと同様に僕らを先へと導いた。

朝から小ぶりだった雨は霧雨に変わり山を覆っている靄の、傘をさすほどでもない湿り気の漂いが、晩秋にさしかかろうとしている山の変化を肌身に染みやすくしてくれている。お天気であれば今頃高尾の山を満員電車さながらの混雑の中歩いていたのだろう、目の前にある景色とのギャップは、実際どちらも同時に体験することはできないのだから比較しようもないのだけれど、雲行きに左右されてここにいる経緯は仕様がない結果だからこそ不可思議を覚えさせる。

 

何人かで連れ立つ旅程は自身以外の要因で決定させられることが大半であっても、その軌跡を明瞭に描くのか淡く余韻を持たせて描くのかによって出来事の受け止め方は様々だ。世界の捕まえ方を謙虚により素直になるべくしがらみのない自由な目で眺めるよう工夫するのがデザインの業であるなら、ツアーコンダクターという職業も設計職の一分類なのかもしれない。

普段滅多に歩かない傾斜といっても普段履きなれた靴であれば難のない坂道を登りながら、これは手土産にと葉先は少し枯れ始めていながらも雨雫の湿り気を帯びて発色も若干増したモミジの葉を拾いあげた。こんなあんなを見てきましたとする土産話だけでも良い、自身で抱え込むには容量が溢れてしまう魅力ある物事や出来事の深淵を共有したいという気持ちがお土産の端緒にあるのかもしれない。

 
見込んでいたよりも早く管理の行き届き具合が公園にしては丁寧な庭園にたどり着き、ここを経由していけば目的の地に向かうであろうとの予感を抱かせた。傾斜を縫いながら蛇行する散策路は、建設された当時からどの程度変化があったかは窺いしれないし、六十年前の竣工時工事監理者として訪れたであろう吉村氏が歩いた物質としての痕跡は留めようがないのだとしても、石積みのレイアウトや敷地を流れる河のせせらぎの響きにデザインの意図を読み直すことは不可逆ではない。自然は成長し建物は朽ちていく、リゾートと呼ばれる文化活動のあり方も時代の変遷で移ろっていく中で、変わらない価値だと思っていたものが幻想だったりすることもあるだろう。

モダンと言ったり近代と言ったりすることが少し恥ずかしく感じられるのだとしたら、僕らは個人が拠って立つ場所をよすがとすることに困難を覚え始めているのかもしれない。小涌園の配置計画にはモダニズムの香りが漂っている。敷地は谷に向かって傾斜した芝生面の両翼に起伏のある山並みを近景に望みつつ、谷に向かう軸線上の先に遠景として尾根のパノラマを抱く。

 

定石でいけば遠望する水平に広がる視野に対して平行に室を並べていくところだろう。どの部屋からも等価な視界が確保できるし、施工する立場からも床の段差が少なくなるのは好ましい。しかしここではなぜか谷に向かっていく方向に部屋が並べられている。下る坂に向かって大きな階段を作るようなものだから自ずと室内の床の段差は多くなるのにかかわらず。

山並みに垂直に針路を向ける小涌園は、沖に向かい航路をとる船を連想させる。日差しを受ける向き、順光と逆光が逆転する対照的な景色に船は挟まれている。展望フロアのレストランではどの席でも視界の止まりのない窓辺、向かう先にある何ものかが良きものであることの自明性の窓辺に面している。

山の景色は移ろいやすい。稜線をうっすらと残しながら深まっていた水蒸気の粒が雲間から一気に差し込む光を受けた乱反射、ぐんぐん空気は澄み渡り今までの不透明な厚みが霧散したのちに開かれる束の間のパースペクティブ。