雑記

「ランチ」とデザイン

お昼ご飯に何を食べるかはデザイン行為に近い気がしている。ある枠組みの中で最大限の効果を自身の身体に届けていたいと思う。毎日毎日そうそう上手くいくわけではないけれど。なぜお昼なのか、朝や夜ご飯はデザインではないのかという疑問は可能なら傍に置いておいておこう。朝は民芸、夜は芸術といった展開はないわけではないが、休日と平日の違いといった細部にも今は触れずにおこう。

 

オフィス仕事の場合、休憩時間が定められていることが比較的に多い。その中での時間配分が必要とされる。一緒に食べに行く同僚に声を掛け、お店を選び、注文をし、食す。気持ちに余裕があれば食事のコーヒーもセットにするだろう。休日の家族の話題を他愛無く交えながら、午後の業務効率に影響するお昼寝時間の確保を視野に入れレシートを手にし店を出る。何をどのように食べるかだけを優先できない諸事情が複雑に関係し、その相関にふさわしい整然としたレイアウトを模索する。

 

毎日のことだからできるなら極力想定の範囲に満足度が収まるようパターン化を図る。期待するランチの充実にブレが無いに越したことはない。お手頃な値段で自身の味覚の好みにあった店は行きつけになり、気の置けない同僚がそばにいればかけがえのない幸運だ。たまには上司や部下と仕事以外の話題も交えておければ、相手の生活の背景にある諸事情も慮りやすくなることもあるだろう。時には外出先で関係会社の付き合いでテーブルを同じくし地域性を感じたりもする。

 

 

決して最高級の食材で手間暇をかけた美食を求めてはいない。選択肢だって肉メイン魚メイン野菜メインか麺類か、そのなもので良い。手頃にその場その時で出来うる範囲で精一杯のパフォーマンスを演じる、そのところに提供者の注力がなされていることを、舌の先が、嗅覚が、色彩構成が、流れる風が伝えてくれる。

 

事前に期待していた自身に及ぶであろう作用と現実の空間に包まれている手応えとのギャップは、良質なデザインに導かれた突然の出会いに似ている。その時私は一瞬間世界の外に片足を踏み出して、こちらとあちらを同時に眺めている。夕暮れ時ガラス越しに室内を眺めていると、暗れゆく外の明るさと中の暗さが徐々に近づきそれまで照度差を映し出していたガラスの存在が消え内と外が等価に並ぶ一瞬がある。私の建物が一番美しく見えるのはそんな瞬間だと語ったのはMOMAの設計者谷口吉生氏。

かっこのよいデザインはたくさんあるが、週末に我々の冷蔵庫に残された食材は限られている。この場所の超越を目指すのではなく、期待と現実の間に生まれる波紋に目を凝らす昼食のひと時。