雑記

お気に入りの「ブックショップ」

大学生のころ住んでいた京都の町に足繁く通った本屋がある。駅前と言っても住宅の合間を2両編成が通り抜ける線は高架やロータリーなどないから、まばらに店が並ぶ商店街は踏切で分断されることになる。今となっては醸し出す空気感が評判となり遠方より訪れる人が珍しくない雑貨屋風の店構え。荒川洋治の平置きされた表紙は、深く鮮やかな青地に黒々と空いた三つの穴が顔のようなものを指し示す。

 

初めて葉山を訪れたきっかけは県立近代美術館でのジャコメッティ展だ。最寄りの駅からの海沿いの蛇行に揺られながらの道中が展示空間の導入部に感じ取れたのは、当時平坦な地に住んでいたから海と山の起伏を纏い易かったのだろう。一つの彫刻が空間に響かせる振動が街を公共芸術へと変質させる。時を経た今もあの時とらまえた波は緩やかに減衰しながらも身体のどこかに留まっている。

 

この町の登り坂の途中、バス通り沿いに一軒の店ができた。ガルバリウムの黒い外壁に山の傾斜に合わせてくの字に折れる木製破風が印象的だった。朝の通勤時にはまだ開いていないし、軒から吊るされた看板もらしさを装う気配がなかったから、気に留めながらもしばらく通りすぎていた。

ブックショップ「カスパール」。再読へといざなう本を選りすぐるが、あくまでその時代に手に入る新刊を扱っている。流行を追った品揃えでない背表紙を眺めていると、ふと京都の本屋を思い出した。ここに自身に近しい視線があると感じさせるものは何か。ブルーグレーに塗装された積層合板で統一された本棚やカウンター。一杯ごとに豆から挽かれたコーヒーの香り。間口いっぱいに嵌め殺されたガラス窓の端に連なる山々。時間に抗う力を宿すものたちの居場所、呼応する品々、時には紅茶、時には器、時にはランチプレート。

何度目の訪問だったろうか、面した坂から数段降りてひとりの老婆が併設されたギャラリーの案内に誘われて扉を引いた。展示の文字の小ささを口にしながら内部を一巡したあと手に取った料理本の表紙には、華やかな器に盛られた料理の写真ではなくて著者である料理家が自宅に所蔵しているモランディの絵が掲げられている。

「お近くにお住まいですか?」スタッフの声掛けから連なる会話の流れに耳を傾けながら眺めた本棚には、石牟礼道子の自伝があり、パウル・クレーの造形思考があり、南桂子の画集ボヌールがある。同じ時代に生きていれば多かれ少なかれある共時性、ただそれだけだろうか。自分の撮る映画をひとつの大河の流れの一部だと評した是枝裕和のエッセイがあり、ただ一つ確実なのは自身が扱える空間は一部分にすぎないと謙虚につぶやいたペーター・ツムトアがそこにいる。波は打ち寄せ砂浜上に石の配置を遍在させながら。